46歳、父子家庭はじめました。生きていくための記録

46歳にして2児の男児と人生をやり直すストーリー

やぶれかぶれな今日。

シンパパも板についてきて、食事も洗濯も掃除も同時進行できるようになってきた。もちろん、あとは仕事と両立できるか、の不安は残るけれど、ちょうど離婚後は仕事のピークが去ったので何とかなっている。

今日は仕事をいつもより1時間早く切り上げて、上の子が息がしづらいというので呼吸器内科を受診した。結果、追加の薬を処方されて様子を見ることになったが、息子はわかっているのかな。この1時間、勤務時間を短縮するってことは、給料をカットしたってことだよ。感謝してほしいな、って。

さて今日はシチューを作った。作って盛り付けてごはんだよ、と言うのだけれど、子どもたちはゲームをしていて、「わかった」と生返事はするものの一向に食事をとる気配がない。結局食事を食べたのは、熱々のシチューを盛り付けてから15分か20分後だった。それもパパである私がいい加減食べろ、と怒ってから。すっかり冷めたトーストと、ぬるくなったシチューを無言で食べていたが、シチューもトーストもほぼ残されている。きっとおいしくないのか、お菓子でお腹がいっぱいになったのだろう。

こういうのを何度も見せられると、虚しくなる。

こんなことの繰り返しが続くなら、食事なんて、シリアルに牛乳をかけたようなエサ的なものでいいんだろ、と言いたくなる。どうせ食事を作っても食べない。あつあつの出来立てを盛り付けても食べない。それよりもゲームを優先したい。だとするならば、食事なんて栄養素が取れるなら何でもいいんだろう。食事中の会話もいらない。ゲームの時間がより優先順位が高い。ありがとうの感謝の気持ちもいらないし、みんな揃って食事を食べるなんてこともいらない。要は、栄養が取れればいいんだ、と。

こういう気持ちになって、今日は皿洗いも鍋洗いも放棄して、お酒を飲みながらブログを書いている。今日はこのまま寝てしまおうと思う。

今は20時半だ。このブログはワインを飲みながら書いていて、もう疲れてしまい、向かう先のない怒りのようなものに捕らわれながらブログを書いている。ああ、俺父親失格なのかもしれないな、って。いつもニコニコして子どもたちのそばにいることなんて、できないって。

私は育児放棄ですか?ネグレクトですか?今日はもう疲れてしまった。

毎日の繰り返し。朝起きて朝食、帰ってきて夕食、洗濯、洗濯物干し、皿洗い、自分の時間なんて全くないんだ。皿洗いが終わると20時半。そこからお風呂に入り、洗濯を始め、21時半過ぎに洗濯物を干し、自分が自由になるのは22時頃。もう寝ないと次の日に支障が出る。こんな日の繰り返しに何の意味がある?

ああ、子どもたちと人生を過ごせる意味がある。けれど、今日は疲れたんだ。今日は寝かせてほしい。もう疲れた。